そう言われてみると、昔の貴族だの大名だのの名前は良く言えば独創的、正直に言えば変てこな読み方多いよなぁ、と最初は妙に納得してしまった。考えてみれば当り前の話で、人の上に立つ宿命を負う家柄なればこそ、我が子にそこらの有象無象と同じに生きて欲しいと願うはずもないわけで、奇抜な名前を付けたがるのも頷けるというもの。流動化の表れ、という観点から、これからも予想より多くの世帯が非定型な名前を指向するだろう、ってのも全くもっともな指摘だと思う。

とは言え。そもそも最初の呉智英がどこまで意図して言ったのかはわからんけども、DQN名から親の程度が知れるって文脈で話してるときのDQN名は単純に難読化されてるとか奇抜あるいはライトな名前ということではない。命名の元になった知識がそもそも誤ってる(例:星と書いて「あっぷる」、聡子のつもりで「恥子」)とか、負の印象を持つ名前が付けられてる(例:仕事中に死んじゃいそうな「殉子」、そもそも成人する前に死んじゃいそうな「早世」)とか、そういうのの方だと思われる。そうなると、id:Mr_Rancelotさんの指摘は若干的外れかと。

だって少なくとも、「親が真剣に子供の人生を考えて命名していて」、かつ親が並の水準程度に学があるか周囲に親の奇行を忠告してくれる人がいるかすれば避けられそうなもので、そうじゃない環境に生まれてしまったことが子供の人生に影響を及ぼす可能性はそれなりにあると思う。それから、親が真剣に子供の人生を考えて…という意味で言えば、流行りもののドラマや漫画にちなんだ名前とか、子供の間は良いけど大人になってからもそれを名乗り続けるのが躊躇われる名前を付ける親も、さっき挙げたDQN名ほどじゃないにしても、どうかと思う。そういう発想って、子供の人生よりも「そういう名前の子供を持つ自分」、あるいは「そういう名前を発想できる自分」にとっての素敵な名前を優先する思考じゃないかなと。で、そういう親が子供の人生の様々な局面で真に「子供にとって」有益で有益な助力をしているか、できるのか、ちょっと不安だ。そう考えていくと、「DQN名付け親」に育てられた子供とDQNでない親の子供の知的水準に統計学的に有意な差が出たとしても不思議じゃないと思う。もちろんあくまで統計学的な話だろうけども。そして元ネタには統計学的なデータはでてこないのでそれ以上何とも言えないけども。

まぁ、それは別にいいんだ。長々と書いたけど、俺が本当に書きたかったのはそこじゃないんだ。

『僕のかつて同級生に「太郎」という名の男子がいました。

生徒会選挙で見事当選しました。

下級生の票を圧倒的に集めたと聞きます。

そんなことを思い出してしまいました。

ど真ん中を貫き切ることができれば、

それが一番の他との差別化になるのかもしれませんね。』

『太郎は輩行名で、そのまま使われる例はむしろ少ないですね。普通は慎太郎のように何がしら一字を付け加えて用いられます。

日本人の代表的な名とされやすい太郎と花子ですが、実はそれほどポピュラーな名前ではありません。

今、逆にそういう名前の方が少数派で、個性が際立つのではないでしょうか。』

green - DQN名と家柄

まったくもってその通りだす。太郎はど真ん中剛速球なんかじゃねぇ。言うなれば、155kmのストレートが自慢の剛腕ピッチャーの投げる90kmのチェンジアップ。一見ど真ん中に見える分だけ余計にタチが悪い。そんな名前を付ける方も付けられた方も捻くれまくってるに決まってるさ。


…そうだよな、親父?