As Sloth As Possible

可能な限りナマケモノでありたい

カテゴリ: 教育

10月の初めに個別指導のバイトを始めてもう1ヶ月くらい経つのだけど、だんだん勉強が苦手な人や、問題を解くとすぐ間違いをしてしまう人の特徴がわかってきた。実際にいろんな人を教えてみると、どんどん自分の中学高校時代の勉強とは違うところが出てくるので結構驚くところが多い。 勉強ができない人・成績の悪い人 - Slow Jamz

という記事を読んだ。いつもならこの手の記事には大抵かみつくところだし、実際最初は何言ってんだと思いながら読んでたんだけど、結構共感するところも多かったので。

要するに、これらの特徴を見ると一貫して「自分で考えるフェーズをすっとばしてる」のが伺える。つまり、「入力」されたものを「処理」してから「出力」という手順を踏んでないから、自分の中に何も蓄積されないというお話ですよね。

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御手洗会長は、採用の改革について「平等に採用して会社では年功序列。競争の原理からほど遠く、イノベーション(革新)は生まれない。社会正義を平等から公平に変え、それに沿った学校教育、採用試験、給料体系にしないといけない」と呼びかけた。

asahi.com:「入社時から給与に格差を」経団連会長、フォーラムで - ビジネス

何かが根本的に違う気がする。言わんとしてることは分からないでもない。年功序列で平等な給与体系でイノベーションが生まれにくいのは理解できるし、平等よりも公平を社会正義とするほうが良さそうだな、ということは同意する。だから採用制度や給与体系の改革は、社会全体で当然必要だろうね。けど、それと学校教育の話はまた違う次元の話のような気がするのだけども。

格差とか、競争の原理とか

昨今格差社会がどうのこうのと言われることが多いらしいけど、格差なんてどんどん生まれればいいと思う。上に行きたい人はどんどん行けばいいのだ。行きたくない人は留まる選択をしてもいいし、行きたい人が行きたくない人につきあう必要はないと思う。野球選手の年俸はホームラン王も万年ベンチも関係なく協定で一律3000万円です、なんて面白くもない事態になったとして、スタープレーヤーが今より増えるとは到底思えない。人より努力したものが(必ずしも金銭的な利益である必要はないけども)より多くのものを得られる、という原理が否定されてなお革新を起こすだけのモチベーションを大抵の人は維持できない。そこに生まれるのは停滞であろうことは目に見えてる。

要は救済策さえ用意されてればよくて、落ちてしまったときに無限に堕ちていくのではなくどこかで止まること、その止めてくれる高さがなるべく高いところであること、気が向いたらまた登り直すことができること、それが保証されてさえいればどんどん格差が広がって構わないと思う。強者の理論と言われてしまいそうだけど、全員が弱者であることを決定されてる(全員が強者になどなれっこないから、どうしたってそうなる)よりは遥かに魅力的な社会だと思うけど。

で、だ。じゃあなんで「入社時の格差」には反発するのか。

だって子供だもの

一つ目の問題は、競争が前倒し前倒しになることによって平等どころか公平からも遠ざかっていくこと。入社時点で既に格付けされてしまうのだから、その前に大学で何らかの「実績」を上げていなければならず、そうなるためには高校で、中学で…と「競争」の開始点が前倒しになるのは明らか。で、そうなると、自分が何者なのか、何者になり得るのかを自分の力で判断できない子供の段階で自分以外の誰かに自分の将来を決められてしまうことが常態になるだろうね。自分でスターティングポジションを決定できないのは公平じゃない。それって、今現在批判されてる学歴社会とか受験戦争とかの問題そのものじゃないの。

その学歴社会だって、明治時代は「身分などという理不尽なものではなく、学歴さえあれば誰でも立身出世できる」っていう画期的なものだったんだけど。昔の偉い人の「天は人の上に人を作らず、人の下に人を作らず」*1って言葉、その後には「でも学問だけが差を付けるんだぜ、だからきちんと勉強しろよ」みたいな話が続くわけで、その時もやっぱり平等じゃなくて公平を実現する手段として学歴社会を見てたらしいけど、その結果が今どうなっているかというと、ねぇ。その先生の像が鎮座しておられます大学だって、ねぇ。や、話それた。

企業にとってもリスキー

二つ目の問題は、そもそも入社時に新人の素質を適切に見極められるのかってこと。入社時の給料は能力に見合う高さになるならそれは別にいい。だけど冷静に考えて、昨日今日会ったばかりの人がどれだけの能力を持っててどれだけ自分(達)にとって有益でどれだけの可能性を秘めてるかなんて、普通そう簡単には見極められない。そんなこと、先輩社会人様たちは重々ご承知だと思うけど。じゃあ何で見極めるのかと言えば、

学生を成績や論文で評価し、入社から給料に格差をつける

asahi.com:「入社時から給与に格差を」経団連会長、フォーラムで - ビジネス

らしいですよ。これはお笑いだ。学生時代の成績やら論文やらで高い評価を得ることと、社会に出てから要求される能力とは全く別種のものだ。はっきり言って、あれは「与えられたルールの中で望まれた答えを返す能力」の高さを示すだけの数字であって、未知の問題を解決するだとか全く新しい発想を生みだすとかの、それこそイノベーションとやらに必要な能力については何の担保もしない。

それに、学校教育とその後の社会的地位を今以上に深く結びつけてしまうと、その制度に適合しない類の能力は埋もれてしまう。大体、学生の時点でイノベーティブな能力を発揮してる奴が、せっせと成績を稼ぐなんて無駄なことに時間を使ってると思えない。多分、何か面白いことができないかと考える方に忙しいと思う。まずこれで一番優秀な人をとりこぼす。残った人の中にももちろん「これから咲くやつ」は混じってるんだろうけど、過去の成績が同じの「一生咲かないやつ」とは区別がつかないから、より(学校制度への)適合度が高い「咲かないやつ」の方を採用してしまうかもしれない。ふるい落とされた適合度の低い方の人たちを、社会性が他の人より低いと言ってしまうこともできるけど、「革新」てのはある種の破壊的創造を伴うもの。「自分の方を既存の価値体系に合わせてしまう」ような能力に長けてる人しかいない集団が「革新」を成し遂げるとはどうも思えないんだけど。

じゃあどうやって見極めるんだよ、って言われても、知るかそんなもん、としか答えようがない。結局のところ、とりあえず使ってみていけそうなやつにより多く投資するしかないかと。で、その為には最初の段階で平等に採用して仕事をさせてから評価に差を付ける方が楽だと思う。だから、まだどこの馬の骨とも分からないものを評価しなきゃいけないってのは企業側にとってはリスキーじゃないのかな。

教育制度は社会人生産工場ではない

とまぁ、長く語ってはみたものの、ここまでは良くある話なのでまぁどうでもいい。経団連のおトイ…じゃない、御手洗さんが見当違いなことを言おうとも、そんな馬鹿馬鹿しいものに迎合しないどこかの新興企業が勝って世代交代するだけなので、俺の知ったこっちゃない。評価方法はアレだけど、優秀な人がより多くもらえる可能性があるってこと自体には反対する理由はないし。問題は、これを自社で実行しようとしてるのではなくて

それに沿った学校教育

asahi.com:「入社時から給与に格差を」経団連会長、フォーラムで - ビジネス

に向けて教育制度を作り変えてしまおうという提案だということ。

日本の学校で「仕事をするということ」をほとんど学ばないってのは批判されてしかるべきだとは思う。教育を受ける期間と社会に出た後の人生には断絶があるように思う。俺だって今現在大学に通っているけど、あまりに無意味なことに時間をさかれて退屈でしかたがない。高校や中学では毎日せっせと「ここ入試で出るから」みたいな教育とはほど遠い授業が行なわれてる。そんなわけで唐突に導入された「ゆとり教育」とやらは、理解も準備も不十分だったがために学力の低下*2が引き起こされて破綻した。だからもっと実社会に沿った教育をしようよ、という話はもっともだと思う。

けどちょっと待て、と。本当に教育と実社会の断絶が本当に悪なのかちゃんと考えたほうが良くないかと。前述したように、企業の採用制度と教育が深く連携してくると、学歴社会の弊害と言われる諸々のことが余計に起こりやすくなる。それを回避するために、もっと実践的な、そう例えば英語やIT技術や経済の仕組みを小学生から教えろ、みたいな短絡的な発想が出てくるとそれはそれで危ない。英語は喋れるけど日本の文化や政治にまるで造詣がない自称国際人とか、コミュニケーション能力が人並以下のエンジニアとか、金儲けの才能はあるけど倫理観が欠如した経営者とか、そういうのがどっから生まれてくるのか考えた方がいい。実用性はないけど知っておくべき教養や道徳や倫理をきっちり教える時間。何かに追われずに自分を見つめる時間。特に意味はないけど思いっきり遊ぶ時間。それらは大人には与えられない、かつ人間を作るのに必要不可欠なものだと思う。で、それが子供に与えられるのは社会*3と教育の間に多少の断絶があるが故に、だと思う。

それに、社会に出て成功することの前段階に学校制度の中で上手く立ち回ることを直結させてしまうと、芸術家やアスリートなどの異能を育てることとか、マイノリティへの公平な機会の提供とか、そういうことに対する考慮が難しくなる。ある価値基準へ適合させようとする圧力が今より高まるのは確実だから。社会の「主流」とやらと教育が連携すれば、今以上に多様性を許容しない文化になる危険性がある。

まとめ

なんか軽いツッコミを入れるつもりがえらい長くなっちまった。ええと、まとめると、「教育は改革すべき」だし「イノベーションのためなら(救済があることを前提に)格差はあってもいい」、そこまでは同意。でも、二つは直接的には結びつけない。職業訓練や人材の選別手段として教育をとらえてしまえば、それは結果として「イノベーションのためなら格差はあってもいい」という発想の根本的な部分に矛盾するから。残るのは格差だけだ。

*1:まぁこれ、厳密に言うと間違ってるんだけど。本当は福沢諭吉は「天は人の上に人を作らず、人の下に人を作らず、と言われている、だけど実際には…」って意味のことを言ってたらしい。

*2:本当にゆとり教育世代の頭が悪くなったのかについては疑問だけど、学力試験の成績が落ちたという意味では低下したんだよね、多分。

*3:という書きかたは何か意図するところと違うな。ううん。なんだろう、経済とか、資本主義とか…しっくりこないな。


そろそろ夏休み。今季も卒業を間近に控えながら盛大に単位を落したことを確信しつつ、最後の授業を終えてきた。


…いや、ね。半年間割り切ってやってきたけども、さすがにこれは書かずにはいられまい。3年半の大学生活のなかでも最上級の無駄な時間を過さされた、「プログラミング技法」の授業について。




四月当初、講座名だけ見て、アルゴリズムとデータ構造の話とか、あわよくば開発スタイルとかプロセスの話でもしてくれるんじゃないかと勘違いして受講した「プログラミング技法」、これが酷いったらなかった。いや酷いという言葉でも足らん。惨い。そりゃね、シラバスをちゃんと読まなかった俺が悪いとか、そもそも文系学部で名が売れてるだけの大学の一般教養の講座に過剰な期待をした俺が悪いとか、単位足りないから楽しようと思ってとった講座で贅沢言ってる俺が悪いとか、そんなことはわかっちゃいるが、まぁそこは置いといて。


まず、開発環境がExcelVBA。この時点で既に小一時間問い詰めたくなった。半期の一般教養の授業でCやJavaをきっちり教えるのはどだい無理な話だというのは理解しよう。どうせならRubyがいい、なんて贅沢も言うまい。だが、だったら何故、PerlやPythonを選ばない。処理系入ってるのに。VBを使うにしたって、何故Visual Studioまで用意してるのにそれを使わない。よりによってExcelVBA。そもそもそれプログラミングに入れるのだって微妙だぞ。


まぁあの場にいた人の大半は職業プログラマにはならない(ことを切に願う)から、ExcelVBAはある意味実践的なのかもしれないということを百歩譲って認めてもいい。けど、「それ関数でいいじゃん(SUMとかAVERAGEとかな…)」みたいな問題をいちいちVBAで書かせることに何の意味があるというのだ。大体、初心者向けならもう少しきちんと基礎的な概念を説明する時間を取るべきだ。変数はDimって書いて宣言するんだよー、とか、Intは整数でSingleは少数なんだよー、とか、If elseで分岐だよー、とか…HowTo本かっつの。「3日で覚えるVBA」とかそういうアレかっつの。どこが「技法」だ。何気に再帰する関数とか使ってるのにその辺さらっとしか触れないし。えーと。それはちゃんと説明してあげないと、理解できないと思うんだけど。


さらにタチが悪いのは、演習って名目でどーでもいい例題をひたすら解かせて、できたプログラムを提出させて、それが動くか動かないか、時間内に何個やったかしか見てないってこと。最初の方きっちりやってても全然加点くれないから、試しに模範解答(またこれがダメなコードの模範みたいなのばっかなんだが)コピペで大量に問題こなして提出してやったら◎くれやがった。…えーとさ、別にいいんだよ、その評価方法はさ。でもこれ、「プログラミング技法」の講座だよね。一体なんなんだ、「技法」って。コピペで仕事したふりをする技法について教えてくれてたのかい、教授。ていうか楽だよね、この授業。教壇に立つ必要ないし、採点もバッチ処理で十分だし。それで金もらってんだからあこぎな仕事だよなまったく。


繰り返すけどうちの大学は決して理系で強いわけじゃないし、情報工学の専攻科もない、しかもこの授業は一般教養だ。だからこんなもんと言えばこんなもんかもしれない。でもさ、友達の話を聞く限りだと、今までプログラミングのプの字も知らなかったけど、大学名と筆記試験と面接のスキルで大手のSEに就職決まったなんて人が結構多い。文系理系問わず。でその人たちはこんな程度の授業でプログラミングを覚えたつもりになって社会に出て行くと。…頭痛くなるよなぁ。




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