As Sloth As Possible

可能な限りナマケモノでありたい

カテゴリ: 意見・主張

動画サイトの広告のことを考えていて、面白い話を聞いた。動画を解析して自動的にテキストベースのメタ情報に落として、それに対してコンテンツマッチさせるような広告システムはどうか、というアイディアがあるということ。どういう仕組みかは聞いてないけど、多分音声を解析してテキスト化するんだろうな。

率直な感想を言うと、面白いし今後はその程度の技術はあたりまえになるかもしれないけど、新しい広告の仕組みとしてはそんなに期待できなそうだな、というところ。単にメタ情報を付加するだけなら、コンテンツ提供者やサービスの側で用意すればいい。それを自動化できるんだよ、ってことなんだろうけど、それでもメタ情報を「こちら側」が用意してることによる限界は越えられてない。

例えば、ニコニコ市場が面白いのは「消費者側」が関連性があると判断したものを広告にできるところに他ならない。あれがどれだけ効果を上げているのかはちょっと判断しかねるけど、「提供者側」のカテゴライズや機械的な動画の解析ではまず思い付かないようなものが市場に並んで、かつそれが案外売れたりしてるところを見ると、単純に動画のメタ情報付加の効率化を計るだけのシステムよりは面白くなりそうな可能性が見えてくる。

SBMの流行とかでさんざん言われてると思うのでわざわざ繰り返す程のことでもないんだけど、あるコンテンツの意味やそれにまつわる暗黙の了解を正しく判断するのは今のところ人力の方が圧倒的に優れているし、ましてやそのメタな要素まで含めてコンテンツ化するなんてのはまだプログラムでは困難だろう。そんでもって、その「人間の労力」をサービスを利用するユーザから上手いこと得られれば、効率がいいのみならず提供者の予測を超えるものが生まれることが有りうる、ってことも分かった。Web2.0だのCGMだのって言うんなら、もっともっと積極的にその「力」を使ってみればいいのになぁと思う。前の会社でも今の会社でも、割と言ってるんだがあんまり理解してもらえないのだけど。

とは言え前時代的な広告システムでもなくニコニコ市場でもない広告の出しかたのアイディアがあるかと言われると、これと言って思い付かないんだけど。なんか思い付いたらどっかに売り込みにでも行こうかしら。

というコラムを読んだ。読んだのだが、今一つ理解できなかった。いや、理解できなかったというのは筆者の意見についてではなくて、論説の前提になっている事象の認識について。個々の結論に関していえば、納得できることも多いし面白い指摘だなと思うこともあるのだけど、全体に渡って前提になっている部分に疑問符のつく分析が多過ぎる。

自分を基準にするからいけないのだろうけども

こういう記事*1を読むとき、大抵は自分は批判の対象にあるのだと自覚して読む。アニメやゲームに日常的に触れているし、中学生くらいの頃からインターネットに馴染んできた*2し、肉体年齢は若者と言われる範囲内に収まっている。ついでに「心の闇」とやらがどうやら巣喰っているらしいことも知っている。

だから、もしかしたら自分の状況に説明を与えてくれるのではないかと多少の期待を持って読むのだけども、残念ながらその手の「分析」に納得したことは今のところ皆無だ。そしてこの記事も例外ではなくて、正直言って前提部分はかなり的外れだと思う。何が的外れなのかは今は言語化できないので、もう少し咀嚼してから書けそうなら書きたいのだけども、とにかく「それ一体どこの誰の話なの?」と終始疑問を抱きながら読んだことは表明しておきたい。

もちろんそれは当然で、「オタク」や「ネット世代」を批判したり分析してるのであって「ぼく」を分析してるのではないから的外れに違いない、何しろ俺様は「一般人」から見ても「オタク」から見てもアブノーマルでオンリーワンな存在ですからね*3、で片付けてしまってもいいんだけど、なんだろうこのすっきりしなさは。

もう少し読んでみる

書いてるうちに少しは整理されるかと思ったけど、あんまり整理されないな。やっぱりもう一度読みなおしてみよう。他のコラムも読んでみるかな。そうすれば、この人がところどころ鋭い指摘をしてるのに最終的にステレオタイプな認識の枠を出ていない理由もわかるかもしれないし。とりあえずメモ。

  • 権威主義
  • 「萌えがなければ犯罪を犯す」
  • ネット世代特有の
  • 生への執着
  • 相対評価
  • 承認を求める

また違う話なんだけど、オタクとネット右翼と単なるバカと精神的な疾患を抱えてる人を全部ひとまとめにして論じるのはいかがなものかと思う。

*1:オタク批判とかネット世代の病理とか、そういう類

*2:ここは敢えて「使う」ではなく「馴染む」と表現する

*3:こういうのが中二病的発想なんだろうな。そしてそれを意識的に言ってしまうのがまさに中二びょ(ry

御手洗会長は、採用の改革について「平等に採用して会社では年功序列。競争の原理からほど遠く、イノベーション(革新)は生まれない。社会正義を平等から公平に変え、それに沿った学校教育、採用試験、給料体系にしないといけない」と呼びかけた。

asahi.com:「入社時から給与に格差を」経団連会長、フォーラムで - ビジネス

何かが根本的に違う気がする。言わんとしてることは分からないでもない。年功序列で平等な給与体系でイノベーションが生まれにくいのは理解できるし、平等よりも公平を社会正義とするほうが良さそうだな、ということは同意する。だから採用制度や給与体系の改革は、社会全体で当然必要だろうね。けど、それと学校教育の話はまた違う次元の話のような気がするのだけども。

格差とか、競争の原理とか

昨今格差社会がどうのこうのと言われることが多いらしいけど、格差なんてどんどん生まれればいいと思う。上に行きたい人はどんどん行けばいいのだ。行きたくない人は留まる選択をしてもいいし、行きたい人が行きたくない人につきあう必要はないと思う。野球選手の年俸はホームラン王も万年ベンチも関係なく協定で一律3000万円です、なんて面白くもない事態になったとして、スタープレーヤーが今より増えるとは到底思えない。人より努力したものが(必ずしも金銭的な利益である必要はないけども)より多くのものを得られる、という原理が否定されてなお革新を起こすだけのモチベーションを大抵の人は維持できない。そこに生まれるのは停滞であろうことは目に見えてる。

要は救済策さえ用意されてればよくて、落ちてしまったときに無限に堕ちていくのではなくどこかで止まること、その止めてくれる高さがなるべく高いところであること、気が向いたらまた登り直すことができること、それが保証されてさえいればどんどん格差が広がって構わないと思う。強者の理論と言われてしまいそうだけど、全員が弱者であることを決定されてる(全員が強者になどなれっこないから、どうしたってそうなる)よりは遥かに魅力的な社会だと思うけど。

で、だ。じゃあなんで「入社時の格差」には反発するのか。

だって子供だもの

一つ目の問題は、競争が前倒し前倒しになることによって平等どころか公平からも遠ざかっていくこと。入社時点で既に格付けされてしまうのだから、その前に大学で何らかの「実績」を上げていなければならず、そうなるためには高校で、中学で…と「競争」の開始点が前倒しになるのは明らか。で、そうなると、自分が何者なのか、何者になり得るのかを自分の力で判断できない子供の段階で自分以外の誰かに自分の将来を決められてしまうことが常態になるだろうね。自分でスターティングポジションを決定できないのは公平じゃない。それって、今現在批判されてる学歴社会とか受験戦争とかの問題そのものじゃないの。

その学歴社会だって、明治時代は「身分などという理不尽なものではなく、学歴さえあれば誰でも立身出世できる」っていう画期的なものだったんだけど。昔の偉い人の「天は人の上に人を作らず、人の下に人を作らず」*1って言葉、その後には「でも学問だけが差を付けるんだぜ、だからきちんと勉強しろよ」みたいな話が続くわけで、その時もやっぱり平等じゃなくて公平を実現する手段として学歴社会を見てたらしいけど、その結果が今どうなっているかというと、ねぇ。その先生の像が鎮座しておられます大学だって、ねぇ。や、話それた。

企業にとってもリスキー

二つ目の問題は、そもそも入社時に新人の素質を適切に見極められるのかってこと。入社時の給料は能力に見合う高さになるならそれは別にいい。だけど冷静に考えて、昨日今日会ったばかりの人がどれだけの能力を持っててどれだけ自分(達)にとって有益でどれだけの可能性を秘めてるかなんて、普通そう簡単には見極められない。そんなこと、先輩社会人様たちは重々ご承知だと思うけど。じゃあ何で見極めるのかと言えば、

学生を成績や論文で評価し、入社から給料に格差をつける

asahi.com:「入社時から給与に格差を」経団連会長、フォーラムで - ビジネス

らしいですよ。これはお笑いだ。学生時代の成績やら論文やらで高い評価を得ることと、社会に出てから要求される能力とは全く別種のものだ。はっきり言って、あれは「与えられたルールの中で望まれた答えを返す能力」の高さを示すだけの数字であって、未知の問題を解決するだとか全く新しい発想を生みだすとかの、それこそイノベーションとやらに必要な能力については何の担保もしない。

それに、学校教育とその後の社会的地位を今以上に深く結びつけてしまうと、その制度に適合しない類の能力は埋もれてしまう。大体、学生の時点でイノベーティブな能力を発揮してる奴が、せっせと成績を稼ぐなんて無駄なことに時間を使ってると思えない。多分、何か面白いことができないかと考える方に忙しいと思う。まずこれで一番優秀な人をとりこぼす。残った人の中にももちろん「これから咲くやつ」は混じってるんだろうけど、過去の成績が同じの「一生咲かないやつ」とは区別がつかないから、より(学校制度への)適合度が高い「咲かないやつ」の方を採用してしまうかもしれない。ふるい落とされた適合度の低い方の人たちを、社会性が他の人より低いと言ってしまうこともできるけど、「革新」てのはある種の破壊的創造を伴うもの。「自分の方を既存の価値体系に合わせてしまう」ような能力に長けてる人しかいない集団が「革新」を成し遂げるとはどうも思えないんだけど。

じゃあどうやって見極めるんだよ、って言われても、知るかそんなもん、としか答えようがない。結局のところ、とりあえず使ってみていけそうなやつにより多く投資するしかないかと。で、その為には最初の段階で平等に採用して仕事をさせてから評価に差を付ける方が楽だと思う。だから、まだどこの馬の骨とも分からないものを評価しなきゃいけないってのは企業側にとってはリスキーじゃないのかな。

教育制度は社会人生産工場ではない

とまぁ、長く語ってはみたものの、ここまでは良くある話なのでまぁどうでもいい。経団連のおトイ…じゃない、御手洗さんが見当違いなことを言おうとも、そんな馬鹿馬鹿しいものに迎合しないどこかの新興企業が勝って世代交代するだけなので、俺の知ったこっちゃない。評価方法はアレだけど、優秀な人がより多くもらえる可能性があるってこと自体には反対する理由はないし。問題は、これを自社で実行しようとしてるのではなくて

それに沿った学校教育

asahi.com:「入社時から給与に格差を」経団連会長、フォーラムで - ビジネス

に向けて教育制度を作り変えてしまおうという提案だということ。

日本の学校で「仕事をするということ」をほとんど学ばないってのは批判されてしかるべきだとは思う。教育を受ける期間と社会に出た後の人生には断絶があるように思う。俺だって今現在大学に通っているけど、あまりに無意味なことに時間をさかれて退屈でしかたがない。高校や中学では毎日せっせと「ここ入試で出るから」みたいな教育とはほど遠い授業が行なわれてる。そんなわけで唐突に導入された「ゆとり教育」とやらは、理解も準備も不十分だったがために学力の低下*2が引き起こされて破綻した。だからもっと実社会に沿った教育をしようよ、という話はもっともだと思う。

けどちょっと待て、と。本当に教育と実社会の断絶が本当に悪なのかちゃんと考えたほうが良くないかと。前述したように、企業の採用制度と教育が深く連携してくると、学歴社会の弊害と言われる諸々のことが余計に起こりやすくなる。それを回避するために、もっと実践的な、そう例えば英語やIT技術や経済の仕組みを小学生から教えろ、みたいな短絡的な発想が出てくるとそれはそれで危ない。英語は喋れるけど日本の文化や政治にまるで造詣がない自称国際人とか、コミュニケーション能力が人並以下のエンジニアとか、金儲けの才能はあるけど倫理観が欠如した経営者とか、そういうのがどっから生まれてくるのか考えた方がいい。実用性はないけど知っておくべき教養や道徳や倫理をきっちり教える時間。何かに追われずに自分を見つめる時間。特に意味はないけど思いっきり遊ぶ時間。それらは大人には与えられない、かつ人間を作るのに必要不可欠なものだと思う。で、それが子供に与えられるのは社会*3と教育の間に多少の断絶があるが故に、だと思う。

それに、社会に出て成功することの前段階に学校制度の中で上手く立ち回ることを直結させてしまうと、芸術家やアスリートなどの異能を育てることとか、マイノリティへの公平な機会の提供とか、そういうことに対する考慮が難しくなる。ある価値基準へ適合させようとする圧力が今より高まるのは確実だから。社会の「主流」とやらと教育が連携すれば、今以上に多様性を許容しない文化になる危険性がある。

まとめ

なんか軽いツッコミを入れるつもりがえらい長くなっちまった。ええと、まとめると、「教育は改革すべき」だし「イノベーションのためなら(救済があることを前提に)格差はあってもいい」、そこまでは同意。でも、二つは直接的には結びつけない。職業訓練や人材の選別手段として教育をとらえてしまえば、それは結果として「イノベーションのためなら格差はあってもいい」という発想の根本的な部分に矛盾するから。残るのは格差だけだ。

*1:まぁこれ、厳密に言うと間違ってるんだけど。本当は福沢諭吉は「天は人の上に人を作らず、人の下に人を作らず、と言われている、だけど実際には…」って意味のことを言ってたらしい。

*2:本当にゆとり教育世代の頭が悪くなったのかについては疑問だけど、学力試験の成績が落ちたという意味では低下したんだよね、多分。

*3:という書きかたは何か意図するところと違うな。ううん。なんだろう、経済とか、資本主義とか…しっくりこないな。

本家/.の記事より。今年1月にリリースされて以来批判が多く、発売直後のスタートダッシュもすぐに息切れしたと思われていたWindows Vistaだが、実はこのところ市場シェアを順調に伸ばしており、一方でVista批判CMを打つなど対抗心をあらわにしていたAppleのMac OS Xは横ばいが続いていると言う(ComputerWorldの記事)。

スラッシュドット ジャパン | Vistaのシェアは着実に増、Mac OS Xは横ばい?

コメントで触れてる人がいたけど、そもそも比較対象がおかしい。MacOSX*1とVista、ではなくてMacとWindowsって比較にするべきでしょ。

MacOSXのシェアが横這いでVistaのシェアが増えてるならその分どっかが減ってるわけで*2、トータルで見れば大して変動してない、ってだけの結論しかでない。大体、このところニューモデルのMacも発表されてない*3とか、Leopardの発売を前に買い控えが起きてる可能性にも触れてない。現行のMacOSX(Tiger)にはこのタイミングでシェアを伸ばす要因がないのだ。OSX→Vistaへの流入が有り得たのにそうならなかったのはむしろ堅調な証拠じゃないかな。一方Vistaは今後PCを買い替えるともれなくついてきます状態。増えはすれど減るわけがないだろう。それをさもVistaが頑張ってるから伸びてるんだよ、とでも言いたげな書き方はアンフェアというものだろう。それを言うならMacのCMも「それは間違いじゃないけど、ウソだよね」ってことを言ってるけど。

*1:参考のデータにはMacOSとMacIntelという項目しかなかったので、MacOSXというよりはMacOS全部合わせた数字じゃないのかな

*2:実際、XPや2000のシェアは減ってる。ちなみにMacOSとOtherも減ってるけど、MacIntelは増えてる

*3:マイナーバージョンアップはしてるけど、新型Macが出てないという意味で



7月の第1週、日本のテレビ業界に大きな衝撃が走った。なんと1週間の間に放送された番組の中で、ゴールデン・タイムに視聴率9%を超えたものが1つもなかったのだという。業界関係者らは、これを任天堂の人気家庭用ゲーム機Wiiの影響によるものと分析している。


ゲームに押されテレビ視聴率が低下

まぁ、なんというか、あちこちでさんざん皆さんがつっこみを入れてるみたいなんで、こんなもの今更俺なんかが語る必要もないとは思うけど、一言だけ。


馬鹿。いや、もう、ただただ馬鹿


…結局、面白けりゃ覩るしつまらなけりゃ観ない、それだけの話。「自分とこより競合のが面白いから」個人の時間という市場のシェアを奪われている、それが「テレビそのものの問題」では無いとしたら一体何だというんだ。堕ちた自らを省みず、環境の変化も理解せず、既得権益を守ること以外に興味はない、そんなやつらが世間からいつまでも相手にされるわけがないだろう。大体、ゲームしてなくたってゴールデンタイムにテレビなんか観やしない。正直、時間の無駄以外のなにものでもないもの。


悔しかったらゲームより面白い番組作ってみろ。話はそれからだ。




いま特に「困ったこと」がない僕は、人生における「動機」を今後どのように調達していけばよいのだろう?とおっしゃっている方がいた。そういう感覚は俺も何度か経験したことがあるなぁと思いつつ、でも、それは果たして本当に「ゼロ地点」なのかなぁと疑問を抱いた。

y = x ÷ π × よくわからない何か + 有り得ない事象

まず、この話の前提になってるマイナスを解消するフェーズとプラスを生みだすフェーズっていう分けかたが違うんじゃないかなと。なんというか、そんなに線形じゃないと思うのだけども、人生って。もしかしたら俺が単に不真面目で無計画な人間なだけかもしれないけど、わずかに20年強の人生の中においてすら、ある方向にまっすぐ進んでいると思えたことがない。

コンプレックスを克服するまで一切夢も追わないし快楽を求めない、とか、一度人間が完成してしまえばどこも直すところがないとか、みんなそんなきっちりかっちり生きてるもんなんだろうか。ときには同時並行に、ときには交互にいろんなことをしながら延々と軌道修正し続けてて、しかもその過程で手戻りや飛躍や目盛りの書き換えが頻繁に起こる。そうなるとゼロ以前とゼロ以降って明確に分けられないと思うし(だってそもそもどこがゼロ地点だか分からないから)、分けられないものであるなら当然「全く別種の努力や才能」じゃないと思う。

それから、自分自身のマイナスやプラスなんていくらでも違う見方ができるものだったりする。ある 基準の中では問題を全て解決したと思っても、別な基準で見ると何一つ解決されていない、なんてことはままある。今の基準で言えば「ゼロをプラスにすること」であっても、そっちの基準で見たときはたぶんそれは「マイナスをゼロにする努力や才能が要求されること」であったりして、それでも「まったく別の行為」だと言えるのだろうか。

そもそも「直すべきところや困ったことがない」状態に到達するのかどうか

自分の人生や存在意義を一つの基準で評価し得て、線形のグラフが描けるという有り得えそうもない仮定を受け入れるとしても、まだ疑問点は残る。本当に差し迫って解決しなければならない問題が無いというのは、俺の感覚でいうと右上の終端であって、決してゼロ地点じゃないと思うんだけど。右上にまだ何かあると自分で意識してる時点で「どこか欠けている」状態を認識してることになる。じゃあマイナスを全てゼロにし終えたっていうのがそもそもおかしくないか。本人が

平穏を幸せと感じるには、僕はまだ何かが足りないか過剰なようです。それが何かは、自分でも分かっていないのですが。

と気付いているってこと自体、全ての欠落を埋めることも現状を肯定することもできていない証拠じゃないか。ならばそのどちらかを達成することを当面の目標にすればいい。そして多分それは当分達成しないと思う。泣けてくるほど不完全な世界に生きる途方もなく不完全な自分が、全てを解決しきる日なんて到底訪れないことは、ほとんど確信できる。それに、今の感覚で言って「達成できた」と思える地点についたとき、また同じ疑問を感じるかもしれない。ならそのときはまた、その疑問を解消するために生きればいい。そんな単純なことですら、タイムアップを宣告されるその瞬間まで延々と続けられそうなくらいに大きな仕事になるんじゃないかなぁ。

ああ、平均点か

ここまで書いてて、もしかして一番すごい人と一番だめな人の「ちょうど中間」とか「平均」をゼロと呼んでいるのかなと思いはじめた。自分の持つあらゆる要素が「平均」からそう離れていないことが「マイナス側」の人の目指すべきゼロ地点だと思ってるんだとしたら、それを良しとしてきたのなら、確かに「そこに至るまで」と「それ以上」は全く違うものだ。そういう人にとっては「ゼロから先」はすさまじく急勾配になってるから、今別に不自由してないしわざわざ先に進まなくてもいいや、と思うのもわかる。

だったらゼロを通過しなければいいのに。ダメなものがいっぱいある→全てが可もなく不可もなく→スゴイものがいっぱいある、っていう誰に決められたかわかんないルートに乗らなければいい。なんかいろいろダメなとこあるけどこれだったらそれなりに出来る、ってとこが始点で、なんかいろいろダメなとこあるけどこれだけは世界中の誰よりもすごい、ってとこが終点な人にはゼロ地点なんか存在しない。「これ」を磨き極めるという一貫した営み、しかないからマイナスかプラスかなんて区別で悩むことはない。仮に「これ」を極めたところでその人には他にまだ極めきってないものが山程あるから、もう十分なんてことない。ゼロ地点に行かなければゼロ地点問題は発生しないじゃん、と思ったんだけどどうだろう。

高校生に重要なのは速度だと話したが理解してもらえなかったを読んでいてああーあるあるそのフラストレーション、なんていたく共感してしまったのだけども、読み進めながら本質的に重要なのは速度とか技術とか情報とかそういうことじゃないんじゃないかなとふと思った。

一応まがりなりにも情報技術者のはしくれというか卵というか、そんなかたちでこの業界に身を置いている以上、情報を効率良く素早く集めるスキルがそれこそ「力」になるってことは痛いほど知っているし、またそれを理解しない人たちがいて日々歯痒い思いをしているから、id:kotorikotorikoさんが高校生の彼に言おうとしたこともすごく理解できる。それでも重要なことはなにか他にある、と思った理由が最初は自分でもよく分からなかったのだけど、コメントでのやりとり、特にスペシャリストとジェネラリストの話のあたりでもやもやとした何かがまとまりそうな気がした。

ナマケモノででもせっかちで好奇心旺盛で新しもの好きな俺にとっては、無駄なことを極力やらないためにパソコンやらネットやらの力を借りてあれこれやることとか、雑多な情報から面白いあるいは役に立つものを掴まえたりいじくったりするのはエキサイティングな出来事に他ならないのだけども、世の中には数字や法律と睨めっこするのが好きな人とか、ひたすら黙々と同じことをし続けるのが好きな人とかいろんな人がいて、それぞれお互いに「あいつも俺みたくすればもう少し幸せになれそうなのになぁ」なんて思っていたりするんだろうけど、それはきっとそのままでいいんじゃないかと思う。

単に指向するところが違うだけ、あるいは適した環境が違うだけ、もちろんそれらの比率とか勢いとかの関係で「世の中全体」の方向性ってのは出て来るんだろうけど、そうであってもやっぱり個々の雑多なものがバランスをとりあいながら気が付いたら複雑系になってたというようなことに過ぎないと思う。

なんとなく進化の多様性に似ている気がしなくもないな。捕食者になるのか草を食べて生きるのか、光合成をするのか他の木に根をはるのか、とかそんなかんじ。最終的に生き残れさえすればいいのであって、どのアプローチが最適解かなんてわからん、否、解は無数にあるとでも言うしかなかろう。ただまぁ、同時に生き残れない道も無数にあることと、情報や速度を追い求める道は少なくもしばらくは優位な道であろうことは知っていていいと思うけども。

ああそうそれで、結局のところ彼にとってより問題なのは、速度や情報ってキーワードに関心を抱かなかったことじゃなくて、おそらくは自分が収まるべきじゃないところに向かおうとしかけてることだろうねぇ。その見極めを誤ることは、相対的には不利だけど自分にあってる道を選ぶよりも数段悲劇的な結果を呼ぶから。

明後日政治学演習の発表があるので、つくる会の歴史教科書とそれに関する議論のレポートを書いている。本当は一ヶ月前から時間があったのに、今頃やってるのはいかがなものですかと毎回思うのに反省しないのが大学生というやつです。お前昔から一夜漬け派だったろって?否、一時間漬け派です!大体レポートは授業のー時間前に書き始めて数分前に印刷してる。プレゼンはぶっつけ本番。試験に至ってはそもそも勉強自体してねえ。…毎回紙一重で切り抜けてきてるのに反省しないのがfaultierというやつです。

左か、右か、それが問題だ

つくる会の教科書はそのまま読む分にはわりと面白いし、あの人たちの指摘は、一面では正しいと思う。中国や韓国の教科書はそれこそ反日感情を育てる教科書のようでも日本側からは何も言わず、一方で内政干渉じゃないかってくらいの要求をはいはいと聞いて、出来た歴史は自虐史だ、っていう主張も、理解出来ないわけではない。いろんな団体が検定に口出しするせいで、奇妙な記述が入ってしまっているって面も、無いとは言えない。

とはいえ。『新しい歴史教科書』の方には、どうしても他の教科書とは違う「ある思想」のにおいを感じてしまう。言うまでもなくそれも作り手の意図のうちではあるのだが。もちろん、歴史というものの性質上、なんらかの主義主張と結びつきやすくて、他の教科書にもその要素が皆無ではあり得ないだろう。それでも、はなから思想的なものとして出すよりは、出来るだけ客観的で冷静なものであろうとすべきだと思うし、どうせなんかしらの思想が植え付けられるなら、「愛国」「誇り」よりも「平和」「悲惨な歴史を繰り返さない」であったほうがマシじゃないかと思う。自信過剰なよりは謙遜し過ぎの方が、積極的に周りを傷つけないだけいい。

日本人ですが、何か?

どうしても、「愛国心」って声高に叫ばれて、右翼的だなと拒否反応が出てしまうのは、日本人としての誇りを持ってないからじゃなくて、その逆じゃないかと思う。俺自身は、それこそ「自虐的な」歴史教育を受けて育ったけども、すごく日本が好きだし、日本人であることを誇りに思っている。誰に言われたわけでもないけど、なんとなくそうだった。自分が生まれたところで、自分の住んでるところで、自分自身のことだから、それが自然だと思う。そう思ってるが故に、誰かから「愛国心を持て」と言われると、自分の意思を勝手に決められているようで嫌なんだろうな。

あれだ。この感覚はあれに近い。宿題、手をつけようと思ってたまさにそのときに、「勉強しなさい」って言われたら途端にやる気が失せる「今やるところだったのに現象」。…違うか。いやそれはまぁ冗談だけど、方向性としてはやっぱりつくる会の教科書は違うんじゃないかなと思うわけです。主張としてはあってもいいけど、こと教育の場面には向かないかと。

考えるのもいいが、動け

とか考えつつ一日中物思いにふけっていたので、レポートはまだ一切手を付けてません。ていうか、この日記書いてる暇あったらその内容をレポートにしろと。はい。

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